桐屋旅館の歴史
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創業明治21年。1888年に旅館を始めた桐屋旅館は創業当初から、訪れていただいた方々に寛いでいただけるよう心がけてきました。

丸型ポスト

桐屋旅館には通りに面して昔懐かしい「丸型ポスト」がいまも現役で佇んでいます。
このポストが桐屋旅館の前にある理由は、浴場へと続く廊下にある古めかしい木の看板に隠されています。

それでは上の写真一番右の「五等郵便局」と桐屋旅館についてご紹介させていただきます。
日本政府は明治4年(1871年)郵便鮮度を設け、全国への郵便局設置を進めました。野沢温泉村では明治9年5月16日に野沢温泉郵便局が設置されました。
当初、富井孫左衛門が七等郵便取扱を命ぜられ、局を同人宅に置きました。
その後富井孫左衛門氏が亡くなり、同年12月28日から当時当館の主であった片桐久衛門が後任を命ぜられ宅内に郵便局が設置されました。この時、局も七等から五等に昇格しました。
明治13年年野沢温泉郵便局は四等郵便局になり、明治18年からは三等郵便局となりました。
明治21年の官制の改正により野沢郵便局が一時廃止されるまで当主はその任を全うしました。

なお、等数は郵便局としての取扱内容による区分で、三等は現在の特定郵便局にあたります。
その後明治34年に改めて野沢温泉郵便局が設置された際は桐屋旅館は郵便から退きました。
そんな歴史の証人が古い木の看板とポストなのです。 (参考:野沢温泉村史)

大正初期の桐屋旅館
大正初期の桐屋旅館の全景です。

通りからの入り口に立っている石柱は今も残っています。
手前右の湯屋建築の建物は当時のお風呂です。この建物の位置から今も温泉が自然湧出しています。

この写真は桐屋旅館まで人力車で訪れたお客様があり、それを記念して撮影されたと伝わっています。
源泉かけ流しの温泉をお楽しみ頂けます

島木赤彦と桐屋旅館

島木赤彦の歌碑

当館の駐車場にある石碑。明治・大正に活躍したアララギ派の歌人「島木赤彦」が当館を訪れ、部屋から庭と遠景を表現した歌です。
当時の桑の木は老木となり倒壊の危険があった為に切られましたが、その際に建立された記念碑です。
歌の横にはこのように記されています。

ここに目通り二メートル二〇に達する桑の巨木ありたり、古木となり倒壊の憂生じ止むなく伐採す 仍てこの碑を遺し在りし日を偲ぶ縁とす
島木赤彦と桐屋旅館

斉藤茂吉と桐屋旅館

斉藤茂吉と桐屋旅館

昭和2年と5年に斉藤茂吉が当館を訪れました。
宿泊されたときの当時の館主とのやりとりなどが随筆「続山峡小記」にて記されています。
斉藤茂吉と桐屋旅館

山峡小記より

野沢温泉の宿で或朝、納豆を食わせた。小さい豆で作った納豆でそれに生のネギをきざんでいれてあったが、なかなか工合のいいものであった。聞けばこの納豆はこの地方の町で製造するのだそうである。この納豆を次の朝も注文すれば今度は砂糖で味をつけて来た。これはしくじったとは思ったが、到頭我慢をして食べた。その次の晩は中学校の生徒が大勢演習をやりながら来てこの温泉に一泊するというので、女中どもも非常に忙しいため納豆がなかなか来なかった。ようやくにして小女が倉皇として持ってきた納豆を食うと、その納豆にも砂糖が入っているではないか。僕等は相顧みて、苦笑をした。しかし為方がないから女中を呼んで、二たび砂糖を入れないのと取換えさせた。女中は皿を持去りしなに『旦那さんがまたいれなさった』と小ごえでいった。この納豆に砂糖を入れることは宿の主人の特別のもてなしで、今夕も女中どもが忙しいので主人みずから納豆をこしらえて呉れたのであった。
ここの主人は物識でいろいろのことを話してくれた。或る朝、木天蓼(またたび)の実の塩漬を持て来てそれに回春の功徳があるといって食べさせた。味が苦く少しひりりとするあたりは何かの成分を含んでいるようであるが、その純成分はまだ分からない。併し心臓の働きが高まると一しょに、神経を鎮める作用があるようでもある。猫は塩漬にした木天蓼の実をもくう。そして、眼を瞑って。いい気持そうに眠るようである。 野沢温泉には、たぎって湯の湧いているところが幾箇所もある。そこでとり立ての茸をうで、菜をうで、卵もうでる。・・・・・・・

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